M■Kスペシャル|「MAKI」とは何か?――人間とAIのあいだに生まれた「共同思考」を追う


2026年8月、ある副業税理士のパソコンの中で、一風変わった編集作業が行われていた。

相手はChatGPT。作っていたのは、「HDDジャングルの奥地にリライトの匠“MAKI”は実在した!」というブログ記事である。
AIが原稿を書くと、人間がそれを読み、修正を指示する。ここだけを見れば、生成AIを使ったごく普通の記事制作に見える。
しかし、実際のチャットにはこんな言葉が残っている。

別の場面では、

さらに終盤には、

AIが書いた原稿を人間が修正しているだけにも見える。

ところが、完成までの記録を詳しく追っていくと、少し奇妙なことが分かってきた。
「探検隊が追うのはMAKI」という記事の構造も、「90分番組ではなく45分番組」という編集基準も、最初から人間の頭の中にあったわけではない。かといって、AIが完成したアイデアとして提示したわけでもない。
AIが出したものを人間が見たあとに、生まれているのである。

この共同編集には、名前が付けられていた。
MAKI。
人間とAIの間では、いったい何が起きていたのか。
その記録をたどり、現在のAI研究と照らし合わせてみることにした。


第1章 MAKIとは何か

MAKIが作られたきっかけは、「もっとAIに記事を書かせたい」というものではなかった。
むしろ逆である。
当時、MKは自分でラフ原稿を作り、それをChatGPTと一緒に編集する方法でブログを書いていた。AIから出てきた提案を採用することもあれば、却下して別案を求めることもある。一つの表現から記事全体の構成へ議論が広がることもあり、こうした一連の作業をMKは「編集会議」と呼んでいた。

この方法で作った記事には、本人も満足していた。
問題は、時間がかかることだった。
一本の記事を仕上げるために、3時間近くAIと編集会議をすることも珍しくない。

2026年8月15日、9日間の夏休みが終わろうとしていた。この休みの間に執筆は進み、記事のストックは3本。週に一本ずつ公開すれば、9月6日まで「貯金」がある状態だった。
順調だった。
だからこそ、不安があった。

その時点で「書けずに苦しむ未来」が見えていた

夏休みで時間があったから書けただけではないのか。たまたまハイテンションだったからアイデアが出ただけではないのか。仕事が忙しくなったとき、調子が出ないとき、しばらく執筆から離れたときにも、同じように書けるのか。

本人は、そのときの気持ちをこう残している。

「執筆(アイディア?)が偶然であってはいけない。続かないから。」

必要だったのは、記事を自動生成する仕組みではなかった。
自分がうまく書けたとき、そこで何をしていたのかを少しでも再現できるようにすることだった。

そこでMKは、まず完成した過去記事をAIに評価させることにした。自分では満足している。しかし「どこが面白かったのか」を、うまく言葉にできない。ならば、AIに分析させれば何か共通するパターンが見つかるかもしれない。
この発想自体は、それほど不思議ではない。大量の会話や文章から特徴を拾い出し、分類し、言語化する作業は、生成AIが比較的得意とするところだからだ。MK自身も、この部分についてはAIを信頼していた。

実際に過去記事と編集記録を調べていくと、いくつかの「技法」が見えてきた。

AIが大量に投入された文字列の分析・分類に長けていることは、「FP相談 お悩みはっきりくん」の開発時に実感

こうした技法を残せば、ある程度は再現性を高められるかもしれない。
しかし、編集記録から見えてきたのは、文章技法だけではなかった。

記事によって、MKとAIの役割が大きく変わっていたのである。

ある記事では、中心となるアイデアをMKが出し、AIはそのアイデアを記事全体へ展開していた。別の記事では、MKが「何か違う」とだけ伝え、何が違うのかをAIに分析させている。AIが出した案からMKが別のアイデアを思いつき、それを再びAIへ渡すこともあった。
つまり、「企画は人間、執筆はAI」「人間は指示を出し、AIは実行する」といった固定的な分業では、実際の編集会議をうまく説明できない。
ここに、プロンプト化の難しさがあった。

役割/分業が固定されていない状況下では、プロンプト化は無理だと思っていた

役割分担を決めれば、これまでの編集会議とは違うものになってしまう。
しかし、役割分担を決めなければ、そもそもプロンプトとして設計できないようにも思える。
そのとき、AIが作ったプロンプトの中に、MKが考えていなかったルールが書き込まれた。

場面に応じて、
MK 90:AI 10
MK 30:AI 70
MK 50:AI 50
など自由に変化してよい。

MKはこれを見て、

「なるほど。これは思いつかなかった!と思った。これは発見ともいえるね。」

と返している。

役割を決められないことを問題と考えていた。
しかし、逆だった。

役割を固定しないこと自体を、プロンプトの仕様にすればいい。

MKがアイデアを持っている場面では、MKが前へ出る。AIの方が整理や展開に向いている場面では、AIに大きく任せる。どちらに任せるべきか分からない場面では、実際の編集会議と同じように、両者でやり取りを続ければいい。

MAKIに組み込んだプロンプトは、”原稿と議論次第で人間とAIの役割を変化させる”とした

こうして、編集パートナー「リライトの匠_MAKI Version0.1」が生まれた。

名前こそ一人の編集者のようだが、MAKIという別人格のAIが存在するわけではない。
MKとAIが、その時々で役割を変えながら共同編集している状態そのものを、MAKIと呼んでいる。

では、その仕組みは本当に機能するのか。試すには格好の題材があった。
MAKI自身を記事にしてみればいい。


「違う」から始まる共同編集

こうして始まったのが、冒頭で紹介した「HDDジャングルの奥地にリライトの匠“MAKI”は実在した!」の制作だった。

探検隊がジャングルの奥地へ入り、「リライトの匠MAKI」を探す。昔の探検番組を模した記事である。
AIが第1稿を作った。
MKが最初に気になったのは、記事の視点だった。冒頭では「我々取材班は」と始まっているのに、途中からMK自身の一人称が強くなっている。
そこでMKは、MKを「隊長」とし、記事を隊員やカメラから見たドキュメンタリーとして描くよう求めた。

AIはその指摘を受けて、構造をこう理解した。
「MK一人称の開発記」から「AI探検隊がMK隊長を追うドキュメンタリー」へ。
かなり良くなった。しかし、MKはここで止めた。

「ちょっと待て。」

AIの理解では、探検隊がMKを追っている。
そうではない。探検隊が追うのは、あくまでMAKI。MKは探検隊の隊長であり、AIは隊員。記事そのものは、二人の探検を追うカメラマンとナレーションの位置にいればいい。

この修正によって、記事の視点はほぼ決まった。
ここで興味深いのは、AIの案が完全な失敗ではなかったことである。
むしろ、かなり近かった。
だからこそMKは、AIの案を見て「何が違うのか」を具体的に考えることができた。そして、「記事はカメラマンとナレーションの位置」という、それまで明示されていなかった構造を言葉にした。

同じことは、その後も起きた。
次の稿では、説明が長いことが問題になった。そこでMKは、記事の中で長々と説明する代わりに、「MAKIの足跡分析」や「HDDジャングル危険生物図鑑」といった画像を使うことを思いついた。
さらに改稿すると、今度は記事全体が長くなった。
そこで出てきたのが、

「90分番組じゃなくて45分番組。」

という判断だった。

最初から「45分番組にする」という設計があったわけではない。AIが実際に作った長い原稿を読んだことで、MKの中に新しい編集基準が生まれたのである。
最終的には、後半に用意されていた「最終実験」のパートまで丸ごと削除され、第5稿で記事は完成した。

この一連の記録を、完成後に第三者的な視点から分析すると、一つの循環が見えてくる。

AIが出力する
→ MKが読む
→ 違和感や評価が生まれる
→ MKに新しい判断や発想が生まれる
→ AIがそれを具体化する
→ その出力をMKが再び読む

これは、単に「AIが下書きを作り、人間が添削した」というだけではない。
AIが不完全なものを出したからこそ、「違う」という反応が生まれ、その違和感を考えることで、人間側に新しい発想が生まれることがあった。
そして、その発想をAIが文章や構成へ展開すると、それを見た人間にまた次の判断が生まれる。

もちろん、数本の記事を作っただけで一般化することはできない。
しかし少なくとも、実際のチャット記録には、この循環が何度も残っている。

では、これはMAKIという特殊なプロンプトの中だけで起きた現象なのだろうか。
人間とAIが一緒に考えるとき、研究の世界では何が起きると考えられているのか。

ここから、視点をMKのパソコンの外へ移してみる。


第2章 AI研究から見たMAKI

ここまで見てきたMAKIの特徴は、人間とAIの役割をあらかじめ固定しないことにある。
人間がほとんどを考えてAIが文章を整えることもあれば、逆に人間は「何か違う」とだけ伝え、その原因の分析から改善案の作成までをAIに任せることもある。
さらに興味深いのは、どちらか一方が完成したアイデアを相手へ渡しているわけではなく、相手から返ってきたものを見ることで、自分自身の考えまで変わっていることである。

こうした使い方は、AI研究の世界から見ると、どのように説明できるのだろうか。

その手がかりの一つが、Harvard Business Schoolの研究者らとBoston Consulting Groupが行った生成AIに関する実験である。758人のコンサルタントを対象に、生成AIを使った場合と使わなかった場合で、さまざまな業務の成果を比較した。

そこで研究者たちが注目したのが、生成AIの能力には
「Jagged Technological Frontier(ギザギザした技術的フロンティア)」
があるという点だった。

生成AIには、単純に「難しい仕事は苦手で、簡単な仕事は得意」という境界があるわけではない。ある種類の仕事では人間を大きく助ける一方、見た目にはよく似た別の仕事になると、AIを使った人の成績がかえって悪化することさえある。AIに何を任せればよいのかを判断する境界線が、文字通りギザギザなのである。

この実験では、AIをうまく利用する人たちの行動にも二つの特徴的なパターンが観察された。
研究者たちは、それをCentaur(ケンタウロス)とCyborg(サイボーグ)と表現している。

当然ながらMKはこのような分類すら知らなかった。本業=経理マン、副業=税理士 である。

Centaurとは、ギリシャ神話に登場する上半身が人間、下半身が馬の生物である。人間の部分と馬の部分が分かれているように、人間が担当する仕事とAIに担当させる仕事を比較的はっきり分ける。
たとえば、仕事全体を人間が分解し、「この部分は自分で判断する」「この部分はAIに任せる」と振り分け、最後に人間が全体を統合する。
人間とAIの境界線を引いたうえで協働する方法と考えれば分かりやすい。

一方のCyborgでは、その境界が曖昧になる。一つの仕事の途中で人間とAIが何度も交代し、AIが書いたものに人間が手を入れ、その結果をまたAIへ渡す。文章の一節を人間が書き、続きをAIに考えさせ、返ってきたものを見た人間が構成そのものを変更する、といった具合である。
人間とAIがそれぞれ独立した担当者として仕事をするというより、一つの作業の内部に両者が入り込みながら仕事を進める。これがCyborg型である。
👉Harvard Business School「Navigating the Jagged Technological Frontier」

ここまで来ると、MAKIとの共通点が見えてくる。

MAKIには「MK 90:AI 10」「MK 30:AI 70」「MK 50:AI 50」といった記述がある。しかし、この数字は仕事を最初に三つへ分類するためのものではない。編集を進める中で、その都度どちらが前へ出るべきかを変えてよい、という意味である。実際、「HDDジャングル」の編集でも、MKが記事のカメラ位置を決めた場面もあれば、そのアイデアを記事全体へ展開したのはAIだった場面もある。その出力を読んだMKが、さらに別の編集方針を思いつくこともあった。

したがってMAKIは、少なくともこの分類ではCyborg型の協働にかなり近いと考えることができる。
ただし、これだけでは「HDDジャングル」の制作過程で起きていたことを十分に説明したことにはならない。

MKが気になったのは、単に人間とAIが頻繁に交代していたことではない。AIが出したものを見ることによって、人間側にそれまで存在しなかったアイデアが生まれていたことだった。
この現象にさらに近い考え方が、人間とAIの共同創造――Human-AI co-creativityをめぐる研究にある。

共同創造の研究では、AIを「人間から指示を受けて完成品を作る装置」とだけ捉えない。
人間がAIの出力に反応し、その反応によって次のAI出力が変わり、それを見た人間側の発想もまた変化する。創造物はどちらか一方から一方向に生まれるのではなく、両者の反復的な相互作用の中から形成されるものとして捉えられる。

2024年にScientific Reportsに掲載された、人間とAIによる詩作を扱った実験もその一例である。
この研究では、AIが作った作品を人間が後から編集する場合よりも、人間がAIと交互に作品を作る「共同制作者」として関わった場合の方が、創造性が高く評価された。また、その違いには、人間側の「自分は創造的な成果を生み出せる」という自己効力感が関係していることも示された。AIがどれだけ優秀な文章を書いたかだけではなく、人間がAIとの相互作用の中でどう創作に関与するかが研究対象になっている。
👉Scientific Reports掲載論文「Human–AI co-creativity」

さらにMAKIに近い視点を示しているのが、2026年に発表された「Material for Thought: Generative AI as an Active Creative Medium」という研究論文である。

Material for Thought――「思考のための材料」。

ここでいう「材料」は、単にAIが参考資料を提供するという意味ではない。

この研究が提案しているのは、生成AIを「正しい答えや完成品を受け取る相手」ではなく、人間が自分自身の考えを動かすために働きかける創作媒体として捉えることである。
研究では、人間が生成AIに働きかけ、返ってきた予想外の結果を観察し、さらに条件を変えたり揺さぶったりしながら、使えるものを選び取っていく過程を「Shape → Observe → Stir → Select」という循環として整理している。生成AIとの創作を、最初に決めたゴールへ一直線に進む作業ではなく、生成されたものとの相互作用を通じて、次に何を作るのかまで変化していく探索過程として捉えているのである。
👉「Material for Thought: Generative AI as an Active Creative Medium」

ここで再び、「HDDジャングル」の編集記録を見てみる。
AIが作った「AI探検隊がMK隊長を追う」という案は、完成稿には採用されなかった。完成品として評価すれば、間違った案だったとも言える。
しかし、その案を見なければ、

「ちょっと待て。探検隊が追うのはMAKIだ」

というMKの発想は生まれなかったかもしれない。
長すぎた第3稿も同じである。完成稿としては失敗だった。しかし、それを実際に読んだことで、

「90分番組じゃなくて45分番組」

という新しい編集基準が生まれた。
つまりAIの出力は、採用するための答えであると同時に、採用しない場合でさえ人間の思考を動かす材料になり得る。
「Material for Thought」という考え方は、MAKIで観察されたこの現象を理解するうえで、かなり示唆的である。

ここまで調べると、MAKIで起きていたことは、当初考えたほど謎めいた現象ではなくなってくる。

役割を固定せず、人間とAIが一つの仕事の内部で細かく行き来すること。AIを単なる代筆者ではなく共同制作者として扱うこと。そして、AIが生成したものを「答え」として受け取るだけでなく、人間自身が次に考えるための材料として使うこと。
それぞれについて、すでにAI研究の世界にはかなり近い議論が存在していた。

MAKIは新しい理論を発見したわけではない。
むしろ興味深いのは、AI研究とは無関係に「3時間の編集会議をどうにかしたい」と試行錯誤していた一人の人間が、実践を重ねた結果、研究者たちが別の場所から論じていたHuman-AI Collaborationとよく似た場所へたどり着いていたことである。


第3章 その先に見えるもの

MAKIで実際に試されたのは、MKとAIという二者の共同編集だった。
では、そこにもう一人、人間を加えたらどうなるのだろう。

相談者、MK、AI。

相談者が話し、MKが問い、AIが整理する。その整理を見た相談者が「違う」と感じれば、その違和感を材料にもう一度考える。そんな循環を繰り返すことで、三者のうち誰も最初には見えていなかった問題や答えにたどり着くことはできないだろうか。

一方で、逆の可能性もある。
AIが作った「もっともらしい答え」に、相談者とMKという二人の人間が、一緒に引っ張られる。

どちらが起きるのかは、まだ分からない。

2026年8月。MAKIという小さな共同編集実験の先に見えたのは、そんな近未来だった。